情報過多社会
現在の情報社会について
現在、世界は情報過多社会となっている。
と言っても、堅苦しいことを言っているのではない。
私たち一般の人々が、膨大な情報の渦に晒され続けている。
それはどういうことか。
インターネットというのはつくづく便利で、自分の興味のあるものが次々と「おススメ」される。
これは商品に限ったことではなく、YouTube、Instagramなどで、自分の興味あることや、趣味嗜好が分析され、その人の好きそうな投稿、情報が現れるようになる。
これは一見私たちにとっても便利であり、会社も儲かるので、win winの関係にあるように見えるが、これによって、私たちは考える力を放棄するようになってしまう。
自分が赴く前に、興味のあることが歩いて来てくれるのだから、当たり前のことではあるだろう。
私たちは、自分のための情報の水槽で、餌を撒かれているのだ。水槽に閉じ込められた魚が自然界では生きていけないように、情報を与え続けられた者は次第に自分の考えを放棄し、考えることをやめるようになる。
それは、社会全体にとってデメリットとなる。
何か疑問があればネットで調べれば一発で正解にたどり着く。
本であれば、誰かの思想の中から自分と一致する意見、尊敬できる意見、全く同意できない意見と、バラバラに詰まっている思想から自分の答えに見合った自分なりの考え方が浮かぶものである。
特にいくつかの本を手当たり次第にとって読むなどしてみれば、それは顕著に顕れるだろう。
そうやっているうちに、思考力、正解を導き出す力が生まれるものだが、知りたいことが、正解が、これだと明確に提示され、それを受け取るだけとなっている。これでは思考力も何もあったものではないかと思う。
情報過多社会
現在の情報社会について
現在、世界は情報過多社会となっている。
と言っても、堅苦しいことを言っているのではない。
私たち一般の人々が、膨大な情報の渦に晒され続けている。
それはどういうことか。
インターネットというのはつくづく便利で、自分の興味のあるものが次々と「おススメ」される。
これは商品に限ったことではなく、YouTube、Instagramなどで、自分の興味あることや、趣味嗜好が分析され、その人の好きそうな投稿、情報が現れるようになる。
これは一見私たちにとっても便利であり、会社も儲かるので、win winの関係にあるように見えるが、これによって、私たちは考える力を放棄するようになってしまう。
自分が赴く前に、興味のあることが歩いて来てくれるのだから、当たり前のことではあるだろう。
私たちは、自分のための情報の水槽で、餌を撒かれているのだ。水槽に閉じ込められた魚が自然界では生きていけないように、情報を与え続けられた者は次第に自分の考えを放棄し、考えることをやめるようになる。
それは、社会全体にとってデメリットとなる。
何か疑問があればネットで調べれば一発で正解にたどり着く。
本であれば、誰かの思想の中から自分と一致する意見、尊敬できる意見、全く同意できない意見と、バラバラに詰まっている思想から自分の答えに見合った自分なりの考え方が浮かぶものである。
特にいくつかの本を手当たり次第にとって読むなどしてみれば、それは顕著に顕れるだろう。
そうやっているうちに、思考力、正解を導き出す力が生まれるものだが、知りたいことが、正解が、これだと明確に提示され、それを受け取るだけとなっている。これでは思考力も何もあったものではないかと思う。
情報過多社会
現在の情報社会について
現在、世界は情報過多社会となっている。
と言っても、堅苦しいことを言っているのではない。
私たち一般の人々が、膨大な情報の渦に晒され続けている。
それはどういうことか。
インターネットというのはつくづく便利で、自分の興味のあるものが次々と「おススメ」される。
これは商品に限ったことではなく、YouTube、Instagramなどで、自分の興味あることや、趣味嗜好が分析され、その人の好きそうな投稿、情報が現れるようになる。
これは一見私たちにとっても便利であり、会社も儲かるので、win winの関係にあるように見えるが、これによって、私たちは考える力を放棄するようになってしまう。
自分が赴く前に、興味のあることが歩いて来てくれるのだから、当たり前のことではあるだろう。
私たちは、自分のための情報の水槽で、餌を撒かれているのだ。水槽に閉じ込められた魚が自然界では生きていけないように、情報を与え続けられた者は次第に自分の考えを放棄し、考えることをやめるようになる。
それは、社会全体にとってデメリットとなる。
何か疑問があればネットで調べれば一発で正解にたどり着く。
本であれば、誰かの思想の中から自分と一致する意見、尊敬できる意見、全く同意できない意見と、バラバラに詰まっている思想から自分の答えに見合った自分なりの考え方が浮かぶものである。
特にいくつかの本を手当たり次第にとって読むなどしてみれば、それは顕著に顕れるだろう。
そうやっているうちに、思考力、正解を導き出す力が生まれるものだが、知りたいことが、正解が、これだと明確に提示され、それを受け取るだけとなっている。これでは思考力も何もあったものではないかと思う。
随分と上から目線の人間関係論
人生を生きていく上で、人間関係を築いていく上で、大切なことはいくつかあると思う。
その一つが、どれだけ相手のことを思えるかだ。
相手のことが好きだから、相手に何かをしてあげたいという思いから親切にするのではなく、相手に嫌われたくない、自分が好かれたいという目的で誰かに親切にする人がいる。
しかしそうしているうちは好かれることはなく、自分の立場は常に相手より下となってしまう。
舐められ、都合の良い人となる。
しかしそれをする人の目的は「好かれたい」「嫌われたくない」というものだから、満たされないまま終わる。
何かをしてもらう側は、自分に好意があって親切にしているか、ただ媚びを売りたいだけなのかを感じ取るものだ。
あなたが素敵だと思うのは、自分のことを思ってくれる人だろうか、それとも自分に媚を売りにくる人だろうか。
おそらくほとんどの人は、自分のことを思って何かしてくれる人を好むだろう。
また、誰かに好かれたり嫌われたりする時、それは行動によってではない。その人の人間性によってだ。
言い換えよう、その人の人間性が結局は行動に現れるわけだから、その核は結局人間性なのだ。
例えば、毎日悪口しか言わないような酷い人間と、誰にでも優しくユーモアがあり、そして尊敬できるような素晴らしい人格の持ち主がいるとしよう。
その2人の人間が、同じことをしても、違う印象になるはずだ。
何を言っても嫌味じやない人、なぜか憎めない人とは往々にしているものだが、それは核の人間性が関係しているわけだ。
あいつを苦しめてやろうと思って言う注意と、本気で誰かのことを思って言う注意は、雲泥の差がある。
結局言葉や態度はツールでしかなく、根底にある心がどうなのか、ということだ。
執着というものも、とるべきだ。
誰かに依ることでは幸せになることはできないからだ。
不安だから執着する、その人が離れていってほしくないから執着をする。そしてその人がいないと生きていけなくなる。
これらはとても危険なものだ。
相手のことを考えているようで、自分のことしか見ていない。相手を神聖化し、その人が離れていかないように縛る。
それはなぜか?
自分だけを見て欲しいからだ。
自分が満たされたいからだ。
だがそんな状態で相手が自分のことを好きになってくれるわけがない。そしてまた落ち込むのだ。
私はまた裏切られた、私はあんなに尽くしたのに。あっちは私のことをちっとも考えてくれなかった、と。
そうは言うが、根本的なことを見過ごしてはいないだろうか。
あなたは、相手の気持ちを汲み取り、相手のためを思って行動していただろうか。
もし誰かに執着しないと生きていけない人がいたら、早めにそれを断ち切ったほうがいい。自分のためにならないからだ。
そして、他人の目ばかり気にしている人は、実は自分を中心に物事、人間関係を捉えている。
なぜか。自分がこう思われたくない、嫌われたくない、こういう人間だと思われたい、そんなことを考えて人と関わっているからだ。
つまり、結局その相手と向き合ってはいないのだ。
本気でその人のことを思い、向き合おうとしているのならば、自分に意識は向かないものだ。
よく聞き上手になれば好かれる!と謳い、良い話の聞き方〜などという馬鹿馬鹿しいことが書いてあるサイトがあるものだが、相手が気持ちよくなれる相槌を打てば好かれるだなんて、そんなことはありはしない。
ただ都合の良い人として扱われるだけだ。
その人がどれだけ自分のことを思って、自分のためを思って話を聞いてくれているのか、人はそこを鋭く見抜く。
結局はその気持ちに尽きるのだ。
例えばあなたが話をしているとき、相手が、「こんな表情で、こんな相槌をしておけば好かれるかな」なんてことを思っていたら、どうだろうか。馬鹿にしないでと、一言言いたくなるだろう。私の話を聞いてよ、私の方を向いて、と。
コミュ障という言葉が最近はあるが、そんなことでコミュニケーションを諦める前に、まずは相手に興味を持ち、相手のことを心から思いやることから始めるべきだ。
もちろんそれは相手に嫌われないためでも、好かれるためでもない。相手への奉仕、私といるときに気持ちいい気分でいて欲しいという思い、これに尽きる。
俗にいう陽キャというのも、別に陰キャが嫌なわけではない。ただビクビクして、卑屈にしている者が嫌なのだ。
卑屈さは、自身のなさの表れ、そしてその人の価値が低いということを表す。そんな人と一緒にいたいと思わない。
だから、あなたも勇気を出して、人を好きになってほしい。
人を好きになれない、興味が持てないというのは、防衛本能からくる。自分が好きになって嫌われたら、自分が尽くして拒まれたら。そんな思いから来るものだ。
一度、忖度なし、理由なしに人を好きになってほしい。